客観的なエビデンスや数字を提示しても、消費者を動かせないケースが増えつつあります。
HPVワクチンや水素水の事例が示すように、科学的な根拠より個人の体験や感情が優先され、エビデンスがノイズとして処理される「ポスト・トゥルース」の波が強まっているためです。
こうした状況に対し、売り手は正しいデータを一方的に押しつけるのではなく、ナラティブの構築、価値を共有するトライブの形成、そして嘘偽りのないプロセスの開示に注力すべきと考えます。
データだけに頼る時代は終わり、相手の価値観を尊重し、誠実に対話していくことが、これからのマーケティングに求められるのではないでしょうか。
ゆらぐエビデンス
私たちは今、「数字や論理が、もはや人を動かす決定打ではなくなっている」という現実をつきつけられています。
これまでは客観的なエビデンスや数字を提示すれば、人々は合理的な判断を下し、それを素直に信じてくれる、そのような前提が成り立っていました。しかし、現代ではそうした前提を根底から揺さぶるような事象がいくつも見受けられます。
例えば、HPVワクチン(子宮頸がんワクチン)を巡る議論です。
厚生労働省や専門機関が数万から数十万人規模の追跡調査に基づき、その有効性と安全性を科学的に証明し続けても、世間に広まったのは「数件のセンセーショナルな副反応」という断片的な記憶でした。科学者がどんなに緻密な統計データを積み上げても、人々の脳裏に刻まれた恐怖を打ち消すことはできません。「数万サンプルで実証したエビデンス」が「少数の感情」に敗北した事例といえます。
https://www.sankei.com/article/20260405-BIUDXJQMUBPCTCOAROQYSYGSL4/
福島第一原発の処理水放出についても同じような構造が見て取れます。
IAEA(国際原子力機関)などの国際機関が科学的な検証を重ね、処理水の安全性をデータで示しているにもかかわらず、一部の層では「汚染水」という呼称とともに、科学的合意を隠蔽と見なす風潮が今なお根強く残っています。ここにあるのは、データへの不信ではなく、データそのものを「自分たちの敵が作った情報」と捉える拒絶反応です。
https://www.asahi.com/articles/ASR434SYVR3ZULBH006.html
一方、マーケティングの現場でより象徴的だったのが、「水素水」を巡る消費行動です。
かつて一大ブームを巻き起こした水素水に対し、国立健康・栄養研究所や国民生活センターなどの公的機関は、ヒトに対する有効性について「信頼できる十分なデータはない」との見解を繰り返し示してきました。さらに、一部の販売業者には景品表示法違反の措置命令も出されました。
しかし、これほど科学的なエビデンスの不在が明確に報じられたにもかかわらず、水素水の市場が完全に消滅することはありませんでした。むしろ、大手メーカーが撤退した後も、特定のコミュニティやブランドにおいては、依然として高価な生成器やパウチが売れ続けています。ここでは、行政や科学が突きつける「根拠なし」という事実よりも、消費者が抱く「体が軽くなった気がする」「特別な水を飲んでいる」という主観的な物語が優先されているのです。
https://www.nikkei.com/article/DGKKASDG03HC2_T00C17A3CC1000/
今、どれほど精緻なエビデンスを提示しても、自分が信じたい結論に合致しない事実はノイズとして処理されてしまう、ポスト・トゥルース(脱真実)時代に入りはじめているのかもしれません。
なぜ「信じたいこと」しか信じないのか
なぜ、これほどまでにエビデンスが機能しなくなったのでしょうか。
科学哲学者リー・マッキンタイアはその著書『エビデンスを嫌う人たち』の中で、科学懐疑論の本質は「知識の不足」ではなく、「アイデンティティへの帰属」にあると指摘。人は自分の信念や属するコミュニティの価値観が脅かされる時、科学的な証拠を拒絶することが多い、と論じています。
https://www.kokusho.co.jp/np/isbn/9784336076199/?srsltid=AfmBOoqEh5GndAv2zo8FSTLOO0-6RUOuoeSXzkribevsRsw-XZTQkO8c
こうした心理的傾向をデジタルテクノロジーが極限まで増幅させるのが現代です。
SNSアルゴリズムや生成AIが生み出す「エコーチェンバー(共鳴室)」効果は、私たちが心地よいと感じる情報だけを選別し、思想を強化します。「これは悪」「これは陰謀」という感情をいったん手にしてしまうと、テクノロジーは丁寧にその物語を補強する情報を送り続け、私たちは自ら構築した「真実の檻」に閉じ込められてしまいます。
こうした状況下では、かつて機能していた「権威」の言葉は無力化します。
政府や大企業、大学教授、メディアといった既存の権威が発するメッセージは、懐疑論者にとって「自分たちを支配しようとする既得権益側の嘘」と映ります。
マッキンタイアが説くように、科学懐疑論者は「科学的な手続き」そのものを疑っているのではなく、「誰がそれを言っているか」という政治的・感情的な対立軸で情報を評価しているのです。
約4人に1人がエビデンスに懐疑的
皮肉なことに、エビデンスへの懐疑的な傾向は、私が行ったアンケートの結果にも、数字として表れています。
商品やサービスを選ぶ際、「効果効能の根拠データ」や「検証結果」に対し、「信用することが多い」と回答した方が4割超と多数派を占めるものの、「信用しないことが多い」も2割半存在。数値やエビデンスを羅列したマーケティングが、約4人に1人にはノイズとして受け止められる可能性を示唆しています。
「信用しないことが多い」と回答した方々に、その具体的な理由やきっかけを確認すると、「実際に効果がなかった」「試してみないとわからない」といった実体験を必要とする声や、「データ・根拠を捏造していそう/データが乏しい・不明」「都合のいいことしか書かれていない」といったデータの使い方を疑うような回答が上位に挙がります。
自由回答で挙がった具体的な声
私たちは今、数値的な「正しさ」を突きつける以上に、そのデータが「誰のために、どのような誠実さをもって提示されているか」という、文脈の証明が求められるようになってきているのかもしれません。
自戒を込めて申し上げると、マーケティングにおける「公式な調査データ」や「第三者機関の認定」は、疑い深い消費者にとっては「広告費で買われた虚飾」と見なされかねません。
消費者は遠くの専門家よりも、自分と同じ価値観を共有する仲間や、親近感を抱くインフルエンサーの主観的な言葉に真実を見出すようになっているのです。
エビデンスで選ばれない時代のマーケティング
科学を疑問視する風潮が強まると、ロジックやスペックだけで競うゲームからの脱却を迫られます。これからの時代、ブランドが生き残るためには、以下の3つエッセンスが必要になってくるのではないでしょうか。
ナラティブや共感への転換まず、エビデンスが効かない相手を大きく動かすのは、「ナラティブ(物語)」と「共感」といった要素になると考えます。客観的なデータを示すだけでなく、個々人がどのような世界観の中で生きているかを理解し、その商品・サービスが「人生にどんなことをもたらすか」という物語性に訴えかけること。また、その人生に寄り添うことが求められます。
例えば、デトックスは単なる科学的な毒素排出ではなく、ファスティングなどを儀式化することによって、自己肯定感を物語的に消費している、と捉えることができます。
また、科学懐疑論が強まると、消費行動は「機能の充足」よりも「コミュニティへの帰属証明」に軸足を移すことが考えられます。ブランドは「これを信じ、これには反対」という姿勢を鮮明にすることで、特定の価値観を共有する「トライブ(部族)」を形成し、その中で揺るぎない信頼を構築することが、デマや懐疑論に対する防波堤にもなります。
オーガニック製品に関していえば、「健康効果があるから」という機能的な側面ではなく、「環境や自然を愛するひとり」という帰属証明として役割の方が大きいのではないでしょうか。
結果としての数値を疑われるなら、それを導き出すプロセスをすべて開示するしかありません。原材料の調達から製造者の苦悩まで、嘘のつきようがない裏側をライブ感をもって示すことも一考です。マッキンタイアの言う科学的態度を、ブランド自らが身をもって体現し、不確実性や失敗も含めてさらけ出すことこそが、エビデンス以上に人の心を動かすかもしれません。
まとめ:エビデンスの先にある「対話」と「誠実さ」
エビデンスが通用しにくくなるという現象は、一見するとマーケティングの退行に見えるかもしれません。しかし、これは数字だけで人を管理しようとしてきたマーケティングの終焉であり、もっと人間臭い関係や対話型のマーケティングへの回帰であると捉えることもできます。
科学懐疑論者が求めるのは、正しい知識ではなく「尊重」と「居場所」です。
だとすれば、これからのマーケターに求められるのは、客観的なデータを提示するだけではなく、相手の価値観を否定せずに「対話」をしていくことなのではないでしょうか。
エビデンスの存在意義が問われる時代になった今こそ、こうした発信側の「誠実さ」が求められると考えます。





